中国西域への旅 青海省 同仁 吾屯(センゲジョン)下寺 郭麻日(ゴマル)寺
中国:青海省にあるチベット色の濃い町、同仁で2日目の滞在。自分にしては珍しく朝早起きしてみる。午前7時、あたりは真っ暗で夜明けの気配すら感じられない。新疆ウイグル自治区にいた頃は北京時間とウイグル時間のふた通りを使い分けていた(東西に長い中国全土で一律の北京時間が採用されるが、西へ行けば行くほど時差があり、ウイグル時間は北京時間より2時間遅れである)が、ずいぶん東に来たはずのここ同仁でもまだ明らかに時差があるような感覚である。こんな暗がりの中でも、通りには隆務寺へ向かう人々の姿がある。自分も彼らをまねて寺院に参拝してみることにする。チベットの初冬の朝だけあって冷え込みは厳しい。
通りに沿ってどこまでも続くマニ車(中に経文が入っており1回回すとお経を1回唱えたのと同じ功徳が得られるというすぐれもの)を延々と回して歩き、いくつもあるお堂に入って巨大マニ車をみんなと一緒になって回す。ざっと同じ行程を踏んでみただけでも1時間ではとても終えられない。地元の人たちはこれを毎朝やっているのだろう。
巨大マニ車を回すときには何周でやめてもいいのだが、人によっては何十周、あるいは何百周と回しているようだ。毎日どれだけの労力をここに費やしているのだろうと気が遠くなる思いがする。毎日こんなことを繰り返すのは効率が悪い、時間が惜しい、などと自分なら考えてしまうだろう。しかし、彼らには何の疑問も迷いも抱いていないように見受けられる。大マニ車を回すときに自分の前を歩いて回す人が終えるまでは続けようと思っていたのだが、たまたま自分の前にいる女性が何周も何周も延々と回していてとうとう根負けして先に終えてしまった。
1か所だけダライラマの写真が飾られたお堂があり、ここでは巨大マニ車を回す人たちの多くがなかなかやめようとせず、延々と車の周りを時計回りに歩き続けている。彼らをまねてやってみるのだが、同じ方向に延々と回り続けていると意外に目が回るものだと実感した。
少しずつ明るくなってきて町も目覚め始めてきたようだ。
寺院や仏像の前では五体投地をしている人も多い。完全防備の自分に比べ、彼らはこの寒さの中でも驚くほど薄着である。僧を含め彼らの多くがこの凍てつく寒さの中でも半袖である。
とは言え、どのようにお参りするかは全く各人の自由のようで、五体投地で回る人もいればあっさりと一礼だけで立ち去る人もいる。マニ車を回す人たちの中には、駆け足でものすごい勢いで先に進んでいく人もいて、朝の仕事前で時間がないのかもしれないなどと思ったりする。バイクに乗って急いでやってきて手早く礼拝を済ませてさっと立ち去る人もいる。敬虔であると同時に、緩い、融通無碍な部分も感じられ興味深い。
別の場所では白い窯の中で葉っぱを燃やしたり、獅子像のような石像に白い水をかけたり、これも毎朝の儀式のようだ。
マニ車を回して歩いていると逆方向にこちらに向かって歩いてくる人がいる。チベット仏教ではお参りの際に対象物の周りをまわる(コルラという)ときは必ず時計回り(ボン教徒のみ反時計回り)はずなので、おやっと思っていると金の無心に回っている人だった。ここ同仁では同じように無心をして歩いている人が多かった。何がしかの金銭を与える人ももちろんいたが、地元の人は総じて彼らに対して比較的冷淡で、無視に近い対応だった。
早朝とあって、通りから少し離れた寺にはまだ訪れる人の姿も多くない。
明るくなるにつれ徐々に参拝に訪れる人の数が増え、町のあちらこちらで思い思いの礼拝をする姿が見られるようになった。
9時前になってようやく太陽が山の端から姿を現し始めると同時に、商店街のどこかから場違いなジングルベルが流れてきた。陽が出たにもかかわらず寒さは一層厳しくなったような気がする。
通りにも僧侶の姿が見られるようになってきた。中には、朝の行に遅れそうなのか、どこかに向かって大急ぎで走って行く若い僧侶たちの姿もある。
この祈りの空間の中で、24時間ランプを点滅させてずっと停車している公安の車両が目障りかつ場違いな感じがする。
広場から坂を下りて隆務古城、いわゆる旧市街(オールドタウン)を歩いてみる。
隆務清真大寺があり、今度は一転してイスラム世界である。この寺にも電光掲示板があり、1日5回のその日の礼拝の時刻が表示されている。同仁の町でチベット仏教とイスラム教が同居しているのだが、一応住み分けをしているという感じなのだろうか。
古城で朝早くから営業していた食堂に入って朝食。肉炒飯14元。
朝もやと寺のお香、朝食の支度の湯気などで、古城から山のほうにかけて一面白く煙っている。
午後からは隣村の吾屯(センゲジョン)村へ行ってみたいと思い、交通手段について宿の若者たちに聞いてみたところ、その中の一人が自分が連れて行ってやるという。ここでわかったのだが、この宿で働いている若者全員がタンカ(仏画)絵師なのだそうだ。ここ同仁は仏教美術の中心地としても名高いそうなのだが、なるほど絵師がそこらじゅうにいるらしい。
7㎞ほど離れたセンゲジョン村まで乗り合いバンで向かう。最初に向かったのがセンゲジョン下寺で、ここは大チョルテンがそびえる立派な寺である。
近くにはタンカ工房があり、タンカの作成風景を見学させてもらう。絵具を筆につけ、何度も筆をなめながら少しずつ色を塗り重ねていく。色のグラデーションもすべて手作業で丹念に色合いを変化させていく。絵の具自体が非常に薄い色で、それを何度も塗り重ねることで濃淡を表現しているようだ。もうこれは完成ではないかと思うような作品にも絵師は延々と筆を入れ続けていた。果てしなく塗り重ねていく作業が、今朝見た人々の祈りの姿と重なって見えた。
続いて川向こうにあるもうひとつの寺、郭麻日(ゴマル)寺を訪れる。着いたときにちょうどラマ僧たちによる儀式が終わろうとしているところだった。シンバルのような鐘を打ち鳴らし、何種類かの長い笛が豪快な音を立てる。あと10分早く来ていればと悔やまれる。
修復工事中の大チョルテン(仏塔)に登らせてもらう。
チョルテン内部にはマニ車がずらっと並んでいて、片っ端から回していく。
帰り道の途中、行きの車の中から見かけていた同仁芸術博物館へ立ち寄る。この日は閉館していたのだが特別に展示を見せてもらった。写真撮影も自由ということで、連れて行ってくれた彼も自分の勉強材料として写真を撮りまくっていた。
その後、また別のタンカ工房へ。ここでは数人の絵師が1枚の長大なタンカに共同作業で取り組んでいた。絵師たちはそれぞれの作業に没頭しており、張り詰めた空気が満ちていた。
タンカ絵師のための学校があり、特別に中に入って見学させてもらう。年齢もレベルも様々の生徒が同じ部屋で作業しているようで、ある生徒は仏画の模写、別の生徒は本格的なオリジナル作品に取り組んでいる。
案内してくれた宿の青年に聞いてみると、一つの作品には半年から1年かかるのだという。まずはお手本となる仏画のデッサンを模写することから始め、色を塗る段階になってもデッサンを書き加える際には改めてお手本を参照しながら作業するのだそうだ。
絵師の学校見学を終えて同仁の町に戻りたいのだがなかなか車がつかまらない。結局通りかかった農夫に声をかけて、トラクターの荷台に乗せてもらうことにする。
ここまで車代が何度かかかっているのだが彼は頑としてこちらに払わせようとしない。同仁の町に着き、じゃあせめて食事をご馳走しようとしたところ、うまいチベット料理の店があるということでそこへ案内される。ここでも彼は頑固なまでに自分が払うと言い張る。お前と俺の仲なんだから払わせてくれと言われ根負けしてしまう。金に余裕があるわけでもないだろうに非常に申し訳ない気がする。
今日1日時間を過ごしたことで、お互いのことを色々話す機会も得られ、結果的にはその後も継続的に連絡を取り合うような仲になった。不思議なのはここまでの会話が共通の言語を使ってなされていないことだ。彼は基本的にはチベット語を話し、中国語は話すことはできるが読み書きがあまりできない。英語は「OK」「Let’s go」の二つしか話せない。こちらはチベット語の知識はもちろん皆無、中国語もあいさつぐらいしかできない。この状態で半日過ごすことになったときに英語で話すことが無意味だと悟ったので、ずっと日本語で通してみた。そうすると意外なほどお互いの話が通じるのである。チベット人の耳に日本語は英語より馴染みやすく聞こえるようで、聞いた言葉をオウム返しに言うことも容易なようだった。彼はチベット語、こちらは日本語なので、お互いに話していることを正確に理解しあっているはずがないのだが、それでも多少の困難はあるものの意思の疎通は図ることができる。これは何とも意外な発見だった。
語学留学から始まった今回の旅、言葉とコミュニケーションというのがひとつのテーマになってきているように感じる。
宿に戻ると、ほかのスタッフたちがちょうどテントゥクという自家製チベット料理を作っているところで、満腹と断ったもののいいからお前も食べろと問答無用で引っ張り込まれる。このうちのひとりが学生時代優等生だったらしく中国語の読み書きができるので、筆談・ジェスチャー・日本語等色々駆使して彼に通訳してもらって、全員とずいぶん長い間話をした。彼自身は、タンカの勉強のために日本と韓国に行ってみたいが、チベット人は自由に海外に行かせてもらえないと嘆いていた。
中国ではホテルに泊まる際に宿帳に民族名を書く欄が用意されていることがしばしばある(中国国民であっても)。宿によってはチベット族お断り、ウイグル族お断りのところも少なくない。国内ですらこのような扱いを受けているのだから彼らにとって海外に行くということがどれほど困難なことか、想像するに余りある。これが少数民族保護を謳っている中国の裏の一面である。
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